ダライラマの子供達

- 目次
はじめに

私は1990年にチベットの子供たちの里親制度について知りました。
ダライ・ラマ法王とともにインドに亡命中のチベット難民の子供たちは、学校に行きたくても親の収入が少ないため教育が受けられないといいます。
世界中には、恵まれず教育をの受けられない子供たちがたくさんいるそうです。
私はちょうど、「世の中に対して何か自分ができることはないだろうか?」と思っていたときでした。
その頃はOLの一人暮らしで、決して余裕があった訳ではありませんでした。
「はたして最後まで面倒みれるのだろうか?」と、もちろん心配もありました。
しかし振り返ってみると、自分の欲望のまま欲しい物を手にいれ、物質的な面ではとりあえず満足してはいたけれど、心は満たされず虚しいものを日々感じていました。
また、無駄にお金を使っていることも度々ありました。
月に2,000円、「生きたお金の使い方をしよう!」そう思ったのです。
里子との深い結びつきを感じて
申し込んでから、里子のプロフィール(氏名、年齢、家族構成)と顔写真が届きました。
その写真を見た瞬間、熱いものが込み上げてきました。
言葉では何とも言い表せがたいのですが、とても愛おしく、深い結びつきを強く感じたのです。
そうこの瞬間に彼女と私との間に心の虹がかかったのかもしれませんね。
「あの子の里親になりたい、この子の里親になりたい」とこちらからの希望をいうことはできません。
どの子の里親になるかは、すべてやすらぎ研究所がきめてくださったこと、いえ、もしかしたら神様が決めてくださったことかもしれませんね。
名前は<ヤンチェン・ドルカー>と言い、年齢は13歳で4人姉妹の三女と書かれていましたが、それよりもっと幼く見える女の子でした。
「両親の収入はとても低く、子供たちの教育費を出す余裕がないので、里親が必要です。どうか、教育のご援助おねがいします。」
というようなことが書かれてありました。
私は、この子が卒業するまではどんなことがあっても責任を果たしていこうと心に誓いました。
ヤンチェンからの手紙
ヤンチェンからは年に数回、手紙やかわいいイラストの他、テストの成績表も届きました。
手紙には
「私は、あなたがお元気で幸福でいらっしゃることを願っています。
私もまた、ダライ・ラマ法王のご加護を受けて元気で幸せに暮らしています。
あなたが、私に逢いにインドに来ることを知り、また、生きている限り私のスポンサーとしてお力をかしてくださると聞いて本当に幸せです。
私はいつも、あなたが人生において成功するようにと、神様に祈っています。写真も受け取りました。とても美しい方ですね。
写真がとても気に入っています。よく取れていますね。私は1学期と2学期のテストも終わり全教科とても良い成績でパスしました。
実はこの手紙急いで書いています。というのはクラスの掃除当番にあたっているからです。
字が汚くて本当にごめんなさい。もし誤字があったときはお許しください。
笑顔をもってこの手紙を終わることにします。
あなたの娘ヤンチェン・ドルカーより」
また、ある手紙には
「英語のテキストの中で日本の作法と着物について知りました。
私はそれらがとても好きです。今日は、チベットの作法とドレスについて書きます。
チベットには、よい作法がたくさんあります。が詳しくお伝えすることが出来ません。
ドレスについて書きます。
チベットの女性はチュパ(チベットの民族衣装)とボンチョを着て、ネックレスをつけます。
また、既婚婦人はパクテン(エプロン)を着ます。
男性は鎧のようなチュパとシャツにパンツを着ます。
そして私はこれ以上の経験がないので知りません。
期末テストがドアをノックしています。とても一生懸命勉強しています。
試験が終わると2ヵ月間の休暇になります。
この間、両親や親戚と一緒に私たちの小さな村で過ごすつもりです。
気候は日に日に暑くなります。そちらの気候はいかがですか?
私はいつもあなたを思い出しています。
あなたのお顔や平和なお心にお会いしたいです。
今日はここまでにします。次のお手紙にたくさん書きます。
お返事を是非ください。
あなたの娘のヤンチェン・ドルカーより」このような手紙を読んで里親にならせていただいたことに対し、感謝の気持ちでいっぱいになりました。そう、お金には、変えることのできない大切なものを手に入れることが出来たからです。
血のつながった家族の他に幸せを願う家族ができたこと、そして 遠い国から私のことを思ってくれている家族がいる喜び....そう 妹がもう一人できたような感じでした。
そして手紙の返事に書いた 「いつかきっと逢いに行くからね 」という約束が実現する日がいつかくることをずっと夢みていました。
ついにヤンチェンに逢いに行くことが決まって
その頃、私は一度も海外旅行をしたことがありませんでした。
その後 、インドは縁があって何回か訪れましたが、ヤンチェンに逢いに行くという約束を果たしてはいませんでした。
インドに行く度に帰りの飛行機のなかで「ごめんね。今度はきっと逢いに行くから...」という言葉を心の中で何度となく繰り返していました。
1999年3月、もう一度インドへ行く機会に恵まれました。
今度こそはと、ヤンチェンに逢うための予定を入れ、やすらぎ研究所にも問い合わせをし、ダラムサラにあるチベット亡命政府の文部省にも、いろいろ整えていただいていました。
ところが、出発の2週間程前に、突然、義父がこの世を去り、当然のことながら、一旦は、インド行きを諦めることになったのです。
が、親戚の暖かい配慮のよって予定どおりの旅をすることになりました。
あわただしい中、やすらぎ研究所には、もう一度インドでメールを出すつもりで旅立ちました。
以下は、里子のヤンチェンを訪ねてインドを旅した記録です。
ダライ・ラマ法王






チベット仏教の最高指導者,ダライは蒙古語の「大海」,ラマはインドの言葉で「グル」すなわち「教師」「上人」を意味するチベット語である。
歴代のダライラマは観音菩薩の化身とされている。
1935年7月6日チベットの北東アムド地方タクツェルに生まれラモ・トンドップと名付けられる。
母親は全部で16人の子供を産み、そのうち7人が育ち、三人の兄、一人の姉、妹弟がそれぞれ一人いた。
1940年、13世の転生として認められダライ・ラマ14世として4歳で即位。
首都ラサに移り、宗教的・政治的教育を受ける。
フルネームはジャムペル・ナワン・ロブサン・イェシェ・テムジン・ギャツォ。
1949年、中国の人民解放軍がチベットに侵入。
中国との関係が悪化するなか、15歳で政治的全権を委ねられる。
1959年のラサにおける中国支配に対する抗議運動をきっかけに、ヒマラヤ山脈の麓のダラムサラに亡命政府を樹立。
国外に亡命したチベット人は約12万人。武力を用いず、忍耐と相互信頼に基づく平和的な解決を提案し続けたダライ・ラマ14世は、1989年ノーベル平和賞を受賞。
その後、中国との関係がさらに深刻化するなか、チベット解放を訴え続けている。
1.デリーに到着
デカン高原のプネーから汽車で約30時間ほどかかって、やっとデリーに到着しました。こんなに長い間、汽車に乗っていたのは生まれて始めてのことでした。乗ったのはエアコン付き2等3段式の寝台車、眠くなったら寝台のベットに横になり、また起きてはどこまでも続く雄大な景色を眺めながらの旅でした。

時計を見ると、もうすでに夜の9時をまわっています。始めてのデリー、私は少し不安になりました。プラットホームは見渡す限り人・人・人でごったがえしていました。薄暗いプラットホームを歩いていて黒っぽい大きなかたまりをふんずけそうになり、おもわず立ち止まりました。よく見ると汚れた毛布にくるまって人が寝ているのです。あたりを見回すと、この黒っぽい大きなかたまりは、あちこちにありました。これからやってくる汽車を待っている人なのでしょうか?それとも、帰る家もなく朝までここで過ごす人なのでしょうか?
デリーでは頻繁に、観光客や、バックパッカーが狙われると聞いていました。自分の荷物に充分注意しながらインフォメションセンターへと向かいました。実は、今晩泊まるホテルを予約していなかったのです。
しかし、残念ながらインフォメーションセンターの扉は、固く閉ざされていました。きっと、営業時間をとっくに過ぎていたからなのでしょう。
うろうろしていたら、ホテルの客引きの男たちにまわりを囲まれてしまいました。
あちこちで「ここのホテルがいいよ」「いやこっちがいいよ」と言うような声がとびかっています。
私は、そのインド人のギラリとした目におもわず怖くなりました。どさくさにまぎれて「◯◯ホテルを予約しているので」と断るつもりで言えば、「そこは、今日は閉まっているよ」と言うありさま.....。
なんという所なのだろう、このインドという国は。
2.どこまでもついてくリキシャのおじさん
通りでは、リキシャのおじさんたちが待ち構えていました。が、値段の交渉も面倒くさいし、駅の近くにはホテルがたくさんあると言うので、歩くことにしました。ふと、後ろを振り返るとオンボロの自転車を引いたおじさんが何人かついてきていました。「サイクルリキシャに乗らないか?」と何度か声をかけられました。
「歩いて行くからいいです。」と断わったつもりなのに、ついてくる60代の痩せ細ったおじさんが一人いました。
この痩せ細ったおじさんは、3つの重い荷物と私たち2人が乗ったとして果たして、リキシャをこげるのだろうか?と疑問に思いました。
そんなことをさせたら、とても気の毒に感じたので「この近くだからいいです。」と断わりました。
それでも、帰ろうとしません。
何度断わっても帰ろうとしませんでした。
「5ルピー(15円ぐらい)でいいから乗ってくれ」というのです。
このおじさんの切羽詰まった感情が伝わってきました。
私は、おもわずポケットから10ルピーを出して「プレゼント」と言って渡しました。
それでも、まだ付いていてくるのです。
リキシャマンとしてのプライドなのでしょうか「乗ってくれ」というのです。
みかねて乗ることにし椅子に腰掛けると、おじさんはリキシャはこがずに押して行くのでした。
やはり、漕ぐには重すぎるのでしょうね?
荷物を背負わなくてもいいのでずいぶん楽でしたが、これでは歩いて行くのと同じ早さでした。
裏通りに入るとますます薄暗く、牛も寝ているし、人もうずくまっているし、変な匂いも漂っていて、ここはまさしく地獄の3丁目かと?思うと怖くて体がゾクゾク身震いしてきました。
3.シムラへ向かう

朝早くデリーのホテルを出て、早朝6:00の汽車でニューデリー駅を出発し、カルカで下車。
カルカからはシムラ行きの登山鉄道に乗り換えました。
その列車はトイ・トレインという一両編成でおもちゃのように小さくてかわいい列車で内装も豪華でした。
ポッポッーと汽笛を鳴らして急勾配の山道を走っていきます。
思いがけず、ミネラルウォーターとランチ(インド式定食)もついていて、心はもう遠足気分でした。
時折、頬をなでる風は異国の木々の香りまで運んで来てくれ、私の疲れたこころを癒してくれました。
窓の外では子供たちが手を振ってくれています。
無邪気な子供たちの笑顔の中に、まだ会ったことのないヤンチェンの面影を見たような気がしておもわず私も手を振り返しました。

午後4時頃にシムラに着きました。
シムラーに着くと待っていましたと言わんばかりに赤い服を着たポーターが5~6人荷物めがけて集まって来ました。
お決まりのホテルの客引きと値段の交渉がはじまります。
値段の交渉は彼の役目、私は第三者の様に遠くから見守っていました。
シムラはヒマーチャル・プラデーシュ州の州都で標高2200メートルにあり、インド3大避暑地のひとつです。
昔イギリスの植民地だったころは夏の間の首都だったところです。
教会などもありインドとは思えないような西欧風な町並みに驚きました。
急斜面に広がるバザールはとても賑やかでチベット人の店が集まるバザールもありました。
南インドは気温40度を越えるというのに、ここはとても涼しくセーターを着ている人もいました。
私は風邪をひかないようにとインドで買った大きめの布を羽織ってレストランへと向かいました。
インドでは1枚の布(ショール)があるととても重宝します。
暑いときは日除けとしても使えるのです。
眺めのいい場所に席をとって少し早めのディナー ・・・・・。
インドに来たらインド料理でということで、サブジ(野菜)カレーとチャパティをオーダーしました。
明日には、ポアンタ・サヒブ校にいるヤンチェンに会えるかと思うと胸がはずみました。
翌朝、散歩の後、ホテルのフロントにタクシーの手配をお願いしました。
「どこまでいくのか」と聞かれ、「ポアンタ・サヒブ校」と答えたところ、シムラではなくてシルモアにその学校はあると言われました。
ヒマーチャル・プラデーシュ州の境にある町で、しかもタクシーで6時間かかると聞いて、思わず2人で顔を見合わせてしまいました。
シムラにくれば、時間がかかっても10分か30分あればヤンチェンにすぐ会えると思っていたからです。
さらに今からでは日帰りは無理だろうということでした。
間違いではないかと、もう一度たずねてみましたが、やはり同じ答えが返ってきました。
さらにあまり理解できていないと思ったのか、親切に地図まで出して説明してくれました。
会いたい気持ちと6時間かけて行っても本当に会えるのだろうかという不安で頭の中はごちゃごちゃになっていました。
でも『ここまで来たんだからいこうよ』という心の声にしたがって行くことを決意しました。
4.やはり起きたアクシデント
部屋に戻って荷物をまとめ、タクシーが来るのを待ちました。
結局タクシーが来たのは、それから1時間後の10時30分頃でした。
タクシーと言っても日本の軽自動車スズキのキャリーの旧型と同じ型でインド名でマルチという名前がついています。
その車は、タイヤは溝がなく、サイドミラーは壊れてなく、ドアも少しへこんでおり日本のタクシーの印象とはほど遠いものでした。
運転手は20歳ぐらいの若々しい青年でしたが英語がまったく通じません。
そのうえ、彼はポアンタ・サヒブに行くのは今回が始めてだということが解りました。

出発前には目的地までの安全を願ってかフロントミラーに飾られたヒンドゥー教の神様の前で、香が焚かれ車内には甘い香が漂っていました。
インド独特の宗教性が感じられ、こちらまで身が引きしまりました。
車は山の尾根にそって続くザ・モールと呼ばれる目抜き通りを抜け、タクシーの中に流れるリズミカルなインド音楽に合わせるかのように 快適に走り続けました。
眼下には、素晴しい景色が広がっていて、とても美くしく感じました。
がしかし、 1時間ほど走ってパンクしてしまいました。スペアタイアは積んであったのですが取り替えない方がまだましと、思えるほどのボロボロのタイヤです。更なる一抹の不安を残し たまま、車は走り出しました。
いつまたパンクして事故に会ってもおかしくない状況の中、カーブを曲がるたびにドキドキし、対向車や大型トラックとすれ違うたびにハラハラし、私の不安は、 ますますは高まったのです。
「止めて!止めて!」と言う私の言葉が通じていたのかどうか、少したって修理屋らしい小屋の前で車は止まりました。
ドライバーは車から降りて、うす汚れた服を着て汗まみれで働いていた店の主人と何か話していました。
車に積んであったパンクしたタイヤを修理交換するためために少し休憩をとることになりました。
車から降りてみると、そこは小高い丘の上で遠くにそびえる山々がとても美しく、思わず両手を広げ思いきり深呼吸をしました。
ホッとしたのも束の間、 交換が終わったのか、私たちを呼ぶクラクションの音が遠くで聞こえました。
ところがパンクしたタイヤを修理しただけで、あのボロボロでツルツルのスペアータイヤとの交換はしていませんでした。
日本だったら即タイヤ交換するだろうに、その気配がまったくなく、また曲がりくねった山道をクラションを鳴らしながら、スピードを落とすことなく走っていきました。
石ころだらけの山道、またパンクするのも時間の問題と思われましたが、こうも違う日本との感覚の差にただただ当惑する私でした。
後はただ、無事に着くことを祈る事しかできませんでした。
5.途中の町で
何時間走ったのでしょうか。
山合いを抜け、どうやら町に着いたようです。
バナナを売る屋台のくだものや、チャイ屋(インド風ミルクティー)、食堂、仕立て屋、日曜雑貨屋、路上に敷物を敷いてその上で商売している人もいました。
とにかくこまごまといろんな店が軒を並べています。
お祭り好きの私は、何時間かぶりの活気に包まれ妙に気持ちが高揚していました。
トイレに行くため私はつかさず車を止めてもらいました。
道行く人と自転車、クラクションを鳴らしながら走ってくるリキシャと、のんびりと歩む牛をかきわけチャイ屋に入り、トイレの場所を 尋ねました。
店の主人は「アウトサイド」と言いながら外を指差しました。
「外にあるんだなぁ」と思い、あちこち見廻したけれどもトイレらしき建物はいっこうに見当たりません。
そのとき初めて「その辺でしてくれ」という意味だったということを理解しました。
結局、車に戻り行く途中の人気のない静かな草むらで車から降ろしてもらいました。
4回めのインドともなればこういうことにも素直に対応できるようになっていました。
<業に入っては業にしたがえ>と言うことわざが頭に浮かびました。
青空トイレも解放感があり、なかなか気持ちのいいものでした。
お昼は、途中のナハンという町で取ることにしました。
言葉の壁があり運転手とのコミュニケーションにはかなり苦労したが、同じ人間同士ハートがあればどうにか伝わるものです。
私たちのリクエストに答えちょっと品のいい?ベジタリアンレストランを探してもらい、1時間後の再会を約束して店の前で運転手と別れました。
インドでは安食堂から超高級レストランまで様々があるが、この町は観光客が訪れるような所ではないので、私たちの入れるようなレストンはありませんでした。
安食堂は衛生状態がまったく悪いのです。
日本だったら絶対に保険所の許可は下りないだろう店がほとんどです。
そのうえ、どこに行ってもハエが多いのには驚きました。
狭い階段を登って入って見ると、薄暗い店内に色鮮やかなサリーをまとった中年の女性が7~8人テーブルを囲んで食事会をしていました。
日本で言うなら 、さしずめ町内会の主婦の会合とでもいったところでしょうか。
元気のいい会話があちこち飛びかっていました。
なぜかヒンドゥー語がどこか日本語とだぶって聞こえてしまうのがおかしく思えるのです。
時折、眼が合うと大きな瞳でジーっとにらまれ、私はここでは外国人だったんだということに改めて気づかされました。
リムカというレモン味の炭酸飲料とフライドライス(チャーハン)を、オーダーしました。
外の暑さに比べ、天井から吊された扇風機の涼しい風が疲れた体には心地よく感じます。
リミカが先に運ばれてきたが、ついてきたストローのあまりの汚さに飲むのを思わずためらってしまいました。
瓶も汚れていたので瓶に口をつけないように飲むしか方法がありません。
それでもリムカはとてもおいしかった。
炭酸のシュワーという泡が 渇いた 喉を潤してくれ一気に半分以上を飲み干してしまいました。
食事を終え外に出ると、車の運転席ですやすやと眠りについていた運転手は私たちの気配に気づいたのかおもむろに起き上がりました。
あとどれくらいで着くのでしょうか。
私たちを乗せたポンコツ車はポアンタ・サヒブへとまた山道を走って行きました。

途中で20頭余りの牛や羊の群れに遭遇しました。
クラクションをいくら鳴らしても、立ち止まったまま、まったく動こうともしないもの、ゆっくりマイペースで歩き出すもの、様々でした。
が、しかし誰も怒ったり、あせったりしないのです。
ここでは、車だから優先という訳ではありません。
人も車もバイクも自転車も犬も牛も山羊もみんなの道路なのです。
痩せ衰え骨と皮だけの大きな牛の体に 牛飼いのムチが入ります。
そうしてようやく、車の通れるスペースができるのでした。
インドでは、牛はシヴァ神の乗り物とされ、聖なる動物とされているので、ヒンドゥー教徒は牛肉を食べません。
6.やっと着いたポアンタ・サヒブ

結局8時間 かかってポアンタ・サヒブに着いた時には、あたりはもうすでに薄暗くなっていました。
「チベタンスクールがどこにあるか知りませんか?」と道行く人に尋ねましたが、インドでは何事も1回で済んだためしがありません。
聞く人ごとに同じ答えが返ってこないのです。
案の定、行ったり来たりして振り回されてしまいました。
なるべく人相が良くて人当たりのよさそうなインド人を見つけて聞いてみました。
何回か繰り返す度に動物的直感ともいうべきか、段々にどういう人に聞けばいいかが不思議とわかってくるのです。
そして学校は、5キロほど戻った所にあることがわかりました。
のどかに広がる田園風景、、その中に学校はありました。
私たちに気づいた何人かの生徒がニコニコしながら後を追いかけてきました。
私は「まちがいなく、ここだわ」と心のなかでつぶやきました。

タクシーから下りると、ひとなつこそうな 子供たちが私のまわりに 集まってきました。
運転手にお金を渡して「ありがとう。さようなら」とお礼の言葉を言いいました。
何事もなく無事に着いた喜びと、長距離を走り続けてくれた運転手さんに対して感謝の気持ちでいっぱいで、シムラまでの帰りの安全を祈りつつ、小さくなっていく車のライトをいつまでも見送りました。
チベットの人は日本人と顔だちがソックリで会うとなぜかホッとするものがあります。
見慣れた顔になぜかしら妙に安心感がわき、私の心の境界線は外れていました。
校長先生は外出中でしたが奥さんが塩とバターでつくったチベットのお茶をいれて私たちをもてなしてくれました。
これはバター茶といわれているもので、何とも表現しがたい味ででした。
それでも、ついつい、おいしいと答えてしまうのは良い子を演じてしまう私の条件付けからでしょうか。
7.ヤンチェンはどこに

20代前半くらいの若い女性の先生もやってきたので、おもわず持ってきたヤンチェンの写真を取り出して見せました。
「この子を知ってますか」と尋ねると「知っています。」と答えました。
「この子に会いたいのですが」と言うと「ここにはもういない」と言われました。
おもいもよらず返ってきた言葉に、一瞬頭が空っぽになり、返す言葉も見つかりません。 体の力が抜け放心状態になってしまいました。
「ここにはもういない」その言葉が胸につきささりました。
大変なおもいをしてここまで来たのにいったい私はなんだったんだろうと。
シムラーで引き返すべきだったのでしょうか。
いろんな思いが頭を駆け巡りました。
そんなはずはありません 。
もしかしたら、「この先生の勘違いかもしれない。」「いや、そうであって欲しい。」と判断した私はとにかく校長先生の帰りを待つことにしました。
それから30分ほどして校長先生は、戻って来ました。
名前をツェーリング・プンツォックさんと言い、背が高く眼鏡をしておりその奥からは、おだやかでやさしそうな眼が覗いていました。
突然の来客にビックリした様子もなかったので、きっと日本の助安さんのほうから連絡がはいっていたのだろうと思いました。
簡単にご挨拶と自己紹介をした後、ヤンチェンのことを聞いて見ました。
「ヤンチェンはここにいますか」
「ヤンチェンは2年前からポアンタ・サヒブにはおりません。」
「それでは今、どこの学校にいるのですか。」
「ここでの課程を終えた後、シムラーの学校へ移りました。今は何処にいるかはっきりとはわかりません。」と校長先生は言われました。
がっかりしました。本当にがっかりしました 。
シムラーへ戻ったら、何か手がかりをつかめるかも知れないと思ってもみましたが、もうあの道のりを引き返す気力は残っていませんでした。
そのうえ日本からずっと一緒に旅して来た、おみやげのダンボール箱がとても重荷に感じられました。
ポアンタ・サヒブは、とても寒いところだと聞いており、マフラーや、ジャケット、ズボン、帽子、文房具などのおみやげを日本から用意して持ってきていたのでした。
そんな私の様子を察したのでしょうか、校長先生が一冊の本をもってきてくれました。
それはエイト社から出版されている「ダライ・ラマの子どもたち」という本でした。
この本のP64に載っている左から3番めの女の子がヤンチェンだと、お知えてくれました。
とっても美しい少女がそこに写っていました。
この本は、私も持っているが始めて手にした時、どこかにヤンチェンが写ってはいないかと目をこらしてみたものでした。
校長先生の暖かい心ざしが伝わり私の心にもう一度暖かさが取り戻してくるのを感じていました。
8.夢に現われた女の子
その夜は、 ゲストルームに一泊お世話になることにしました。
シングルのベッドとソファが置いてあるだけの質素な部屋でした。
とても疲れていたがベットに入ってもなかなか眠れませんでした。
「せっかくここまで来たのに会えなかったのはなせだろう。」
「ヤンチェンに会いたいと言うのは私のエゴだったかも知れない。」
「しかし助安さん達も知らなかったのだろうか。」
「今まで払い続けてきた教育費はどうなっているのだろうか。」
など、いろんなことが頭をよぎりました。
そんなウトウトしている中である不思議な夢をみました。
小さなとてもかわいい女の子が私の部屋の中に入ってきて、こう話したのです。
「遠いところから会いに来てくれてありがとう。私とってもうれしい。
お礼をいいたくて来たの。」と。
私は、その小さな女の子をおもわず抱きしめました。
その時なにか暖かくてやわらかい光に包まれたような感じがしました。
「決して無駄ではなかったんだ。」
この大地のスピリットに祝福されたようにも思えました。
そして今回はヤンチェンに逢えなかったけれど、いつかきっと会えるだろうという確信が私の中に芽生えていました。
9.心に染みわたる子供たちの唱和

翌朝、起きてすぐ 校長先生の案内で 早朝7:00から始まる子供たちのお経を聞きに学校の講堂に向かいました。
お経の唱和は、朝と夕方の2回おこなっているようでした。
学校までは歩いて5分程、行く途中にはのどかな畑がひろがっていて、もうすでに農夫が腰をかがめて仕事をしていました。
講堂の外では 年少の子供たちが、講堂の中では年長の子供たちが、床に敷かれた赤い布にあぐらをかいて座りお経を唱えていました。
壇上にはダライラマ法王の写真が飾ってあり、その写真を見つめながら無心に唱えている子、目を閉じて祈るように唱えている子、眠むたそうな顔をした子もいました。
子供たちが唱和する美しい響きは、細胞の一つ一つにしみ入っていくようでその神聖な音を身体いっぱいに浴びているうちに、心がどんどん洗われていきました。
目を閉じてその響きを聞いているうちに、とても安らかで、幸せで、暖かな気持ちでいっぱいになり、小さな両手を合わせ祈る子どもたちの祈りが早くこの地球上のすべての人たちに届くようにと私も心から願いました。

お経の後はおまちかねの朝食、パン2切れとお茶だけの質素な食事です。
ふと、ヤンチェンからの手紙に「おいしい食事が出ます。」と書かれてあったのを思い出したが、私も含めて日本の子供たちは毎日この食事でがまんできるのだろうか?と思いました。
以前は 土間に 敷物を敷いてその上に座って食事をしていたらしいが、今は机とイスで食べていました。
あちこちで賑やかに会話が飛び交います。
6歳~7歳くらいの小さな子供たちは、とても無邪気で人なつっこく 元気な子供たちです。
それよりも大きな生徒たちの中には、私の方をちらちら見ながら照れくさそうにしている子もいました。
どの子も同じように みんな愛らしく、いとおしい子供たちでした。
ゲストルームに戻って見ると 奥さんの手作りの焼たてのチベットパンとバター茶が私たちを待っていました。
日本ではめずらしいパイナップルのジャムをつけていただきました。
奥さんの 温かい心が伝わって来て久しぶりのおいしい食事でした。
10.チベット難民の学校の現状

チベット難民の子供たちの通う学校は、大きく分けて三つありどの学校にでも通うことができるといいいます。
一つめの、中央チベット学校府(インド政府管理下の学校)は規模も大きく、12学年まである学校が全31校中8校あり生徒数は約12,000人。その中の5校が寄宿制で約1700名の子供たちが学んでいる。350名をインド政府が、残り1350名をチベット文部省を通して各国の人たちが補助金を援助しています。
二つめの、自治学校は、 SOSインターナショナルなど、大きな国際組織の援助で成り立っていて、全21校で、約10,000人の子供たちが学んでいる。その中で12学年まであるのは2校で10学年以上あるのが3校です。
三つめの、チベット文部省学校(チベット文部省管理運営下の学校)は、やすらぎ研究所のような民間のボランティア団体・個人の援助ににより成り立っていて全33校に約4,800人の子供たちが通っています。
10学年まであるのが2校のみで、このポアンタ・サヒブ校は、チベット文部省学校に属していて最高12学年まであって全校生徒は約400名です。
チベットの子供たちは里親が決まらないと学校に通えないため、年齢と学年は、必ずしも一致するわけではないそうです。
里親についてもらったときから一年生、そして12年生で卒業、さらに、勉強を続けたい子は、短大や大学、専門学校にも進学することはできますが、もちろんそれは奨学金に頼らざるを得ません。また12学年までない学校に通っている子供は、12学年まである学校に転校しなければなりません。
11.ポアンタ・サヒブ校を見学して

朝食の後、 校長先生が学校を案内していただきました。
ちょうど校庭に全校生徒が集まって朝礼しているところでした。
お揃いの水色のシャツに黄色と緑の縞模様のネクタイ、グレーのズボンにスカート姿の子供たち、みんな制服が良く似合っています。
チベットの祈りの歌のようなものを生徒たちは、元気に歌っていました。
6歳ぐらいから15~16歳ぐらいの生徒たちが学校の寄宿舎で生活しています。
寄宿舎は、男女に別れていて、とてもきれいで1つの部屋に2段べットが10個ぐらい並んでいました。
トイレも、おもっていたよりずっとずっときれいに清掃されていました。(インドのトイレは汚いのです。)
建築中の寄宿舎も案内していただきました。
今、日本の援助で新しい女子寮が建築中で現在使われている女子寮が男子寮になるそうです。
新しい寄宿舎を、みんなきっと楽しみにしているのでしょう。暖かい日差しが差し込む窓から少女たちの笑い声が聞こえてきそうです。

その日はちょうど試験日で、教室の入り口で生徒たちが先生に持ち物のチェックを受けていました。
教室の中に持って入れるものは、筆記用具のみ、生徒たちの緊張が、伝わってきます。
試験が始まると子供たちは、一生懸命、答案用紙に答えを書いていました。
低学年の子供たちは、試験はないらしく校庭の草の上に座り、絵を書いたり本を読んだりしています。
青空の下、太陽の光を浴びながら楽しげに勉強しているのを見てとても懐かしく忘れかけていた自分の幼い時の記憶がよみがえって来ました。
「こんにちわ」と私が近づいていくと照れくさそうに笑います。それがまた、とてもかわいいのです。
ふと、6歳くらいの女の子が目につきました。
まだ、このくらいの歳だと両親が恋しいのもあたりまえなはずです、 親指をずっとしゃぶっているのでした。
彼女が、両親の元に帰れるのは、まとまった休みの日だけなのだろうと思うとかわいそうになりました。
今のチベットの状況では、どうしようもないことかもしれないけれど、子供たちが家族と供に暮らし、家族の元から学校に通える日が早く来ることを私は願いました。
学校の施設は、教室を始め、校長室、職員室、事務室、生物室、科学実験室、物理実験室、図書室、美術、工芸室、保険室などがあり、多くのチベットを愛する人々によって建てられました。
長い道のり、ここまで来てヤンチェンには逢えなかったけれどポアンタ・サヒブ校の純粋で輝いている子供たちに会えて本当に良かったと思いました。
12.校長先生とのお別れ

その日の午後2時発のバスでポアンタ・サヒブからダラムサラに行くことになりました。
ダラムサラにチベットの文部省があり、そこでヤンチェンのことが解るかも知れないと知ったからです。
日本を発つ時点では、ダラムサラに行くことはまったく予定にもないことで予想もしていませんでした。
がしかし、ダラムサラ行きは自然に決まったことだったので、これから先は流れるまま身を任せてみようと思いました。
チケットは校長先生が手配してくださり、「文部省の方にも連絡を入れておくので何も心配することはない。着いたら訪ねてください。」また、「ダラムサラには早朝に着くので日が登るまでバスセンターにいたほうが無難でしょう」と言われました。
あらためて校長先生の慈しみのあるやさしい心にうたれ本当に感謝でいっぱいになりました。
駅はたくさんの人でごった返していました。
バスを待っている間、蛇を首に巻いた不気味な乞食がやってきました。
周りの人がいやがっているのにわざと近づいてきて、お金を貰うまでそこを離れずお金を貰うとまた別の人の所に行き同じことを繰り返すのです。
その乞食がやってくると校長先生はニコニコして、お金を施していました。
私ときたら、なるべくその乞食と気持ち悪い蛇と目をあわせないように遠ざかっていました。
予定の時刻より少し送れてバスは到着しました。
別れるのが寂しくなりました。短い間だったけれど、私の心から決して消えることのない大切な贈り物をいただいたような気がしました。
私はバスから「ありがとうございました。さようなら。」と何度も手を振りました。
13.ダラムサラへと向かう
バスの中を見渡すとインド人に混じってチベット人も何人かいた。私もインド人からみたらきっとチベット人に見えたかも知れません。
でも、なんだかうれしく思いました。
私の座った席は3人掛けの一番前の席で隣には、気のよさそうなインド人の男性が2人座っていました。
念のため、荷物をバスの金属の棒にしっかりとチェーンでつなぎカギをかけました。
自分のことは自分でしっかりしないと誰も責任をとってくれないし、スキがあると荷物はあっというまにどこかへ消えてしまいます。インドはそんな国なのです。
ポアンタ・サヒブからダラムサラへは13時間かかり明け方3時頃に到着するようです。
インドで13時間もバスに乗るのは始めてだったので考えると気が遠くなりました。
それも観光用のデラックスバスではなく各駅停車の普通のバスだったのでシートが堅く、おしりが痛くなりました。
このインドのバスは日本と違って バス停にかかわらず、どこでも降りたいところで降ろしてくれるし、手をあげると止まって乗せてくれるので、良心的だとおもいました。
3月でも日中はかなり暑く日差しも強く汗ばみます。窓からビュンビュン風が入り込み気持ちが良いのですが、土ボコリも一緒に入って来るのでハンカチはすぐ汚れてしまいます。
途中 何時間か走った後に何回か休憩して、チャイ(インドのミルクティー約8円)を飲みました。
チャイは、厚手の薄汚れた耐熱成ガラスのコップに入っていて、一瞬飲むのをためらいましたが、濃くておいしいミルクティでした。
インドのバスはいつ出発するのかわからないのでバスから目を離さないように気をつけながらオヤツのバナナを4~5本買いました。
ダラムサラへ着くまでに運転手は3人交代しました。運転手によって性格が違います。
3人目の運転手はこれまでにない猛スピードで飛ばしていきました。
夜10時頃だったと思いますが突然二車線の広い道路にでました。
続く 両脇の電柱と電柱の間には、オレンジ色の小さくて丸い電球がいくつも並び、その光はあまりにも鮮明で一気に眠気が吹っ飛んでいました。
マハラジャ宮殿に似た建物に装飾されたオレンジ色に輝くネオンの光の数々、とても美しくタイムスリップして<おとぎの国>にでもいるような気分になりました。
新道路の開通のお祝いだったらしく夜店も並んで、大人も子供も遅くまで楽しんでいるようでした。
何キロにも渡り続いた<おとぎの国>を通り抜けまたバスは暗い道を走り続けました。
一瞬、さっきみたものは夢かと思ったが、興奮はまだ続いていてこれから見知らぬ土地を旅する私たちへの歓迎のセレモニーにも思えました。
運転手は山道にかかわらず猛スピードを出し乱暴な運転で走りつづけていきます。
右や左にハンドルを切るたびに大きく車体がゆれるので、何度も窓ガラスに頭をぶつけたり、投げ出されてしまいそうになりました。
もう真夜中、 前の手すりに捕まっていても眠いのでついうとうとしているうちに、手すりから勝手に手が外れてしまいます。
周りを見渡すとみんな、気持ちよさそうにこっくりこっくり、左右にゆれています。
突然、バスは止まりました。窓越しで運転手と警官が何か話しています。暗闇のなか10人ぐらいの人影もみえました。
何があったのでしょうか。ぜんぜん解ません。エンジンも止まり運転手と乗客何人かがバスから降りました。
事件でしょうか?まったく解りません。少し怖くなりました。暗闇から、たき火の燃え上がる炎だけが浮かんで見えます。バスの中はしーんと静まりかえっています。乗客がもどってきました。何かヒンドゥー語で周りの人と話しているが私にはまったく解らません。
私がジタバタしてもしょうがありません。
また、少し眠くなってきたので目をつぶったままで事態の無事を願いました。
どれくらいたっただろうか。 ブブブッーと鈍いエンジンの音が車内に鳴り響きました。
やっと出発です。 ダラムサラまであと数時間、ほっとしたのかまたすぐに眠りに落ちていきました。