中国・朝鮮の入竺僧

記録によると中国で最初の入竺僧は東晋の法顕(ほっけん)をもって嚆矢とされる。中国では4世紀の末から8世紀にかけて名前が残っている入竺僧だけでも169名いる。無名の僧を加えると千名を超えるといわれる。玄奘や義浄は盗賊に会って、身ぐるみは剥がされが命は助かったが、中には命を落とした者もあっただろう。あるいは高山病、飢餓、猛獣に襲われるなど、道の途中で倒れた者も数多くあったに違いない。
その頃天竺への道は大きく分けて三つの道があった。タクラマカン砂漠を通ってパミール高原、ガンダーラへ抜ける『中央アジアコース』と、青海省からチベット、ネパールを越える『吐番(とばん)コース』と、海路スマトラ島を経由して東インドのトルムク(タームラリプティ)へ着く『海南コース』である。
実はあまり知られていないもう一つのコースがあった。義浄によるとナーランダの東には支那寺(しなじ)があって、蜀からきた中国僧の為にシュリグプタ王が建立したことを言い伝えている。その僧達は雲南ルート(西南シルクロード)で来たのである。それは蜀(今の四川省)から貴州の貴陽を経て大理、ミャンマーのバモーからインパール経由でインドのアッサムへ抜けるルートだった。
次に中国の特に有名な三名の入竺僧を表にしてみた。いずれも苦難の旅の末、無事に帰国して記録を残している。
| 名前 | 年代 | ルート | |
| 東晋の法顕(ほっけん) | 337~422 60才をすぎて出発 | 往路 西域南道 陸路 帰路 セイロン島 スマトラ島 南海路 | 15年後帰国の時は80近くだった |
| 唐の玄奘(げんじょう) | 602~664 27歳で出発 | 往復陸路 中央アジア | 17年間後に帰国 |
| 唐の義浄(ぎじょう) | 635~713 37歳で出発 | 往復海路 スマトラ 東インド トルムク | 24年後に帰国 |
中国の義浄が著した「大唐西域求法高僧伝」には八名の朝鮮求法僧が記録されているが、その中で名前が残っていない二名の新羅僧は船に乗ってスマトラの西バロス国で病没している。入竺した朝鮮僧のほとんどは生国に戻れなかった。高句麗の阿離耶跋摩(アーリヤヴァルマン)はインド名しか伝えられていない。彼らが帰れなかったのかそれとも自分の意志で帰らなかったのか理由はわからない。
| 名前 | 年代 | ルート | |
| 百済の謙益(ギョムイク) | 526 | 南海路 | 526年百済に帰国 |
| 百済の義信 | 6世紀 | 南海路 | 無事に百済へ帰国 |
| 新羅の玄太(ヒュンテ) | 7世紀 | 陸路 チベット ネパール陸路 | 中国で没 |
| 新羅の慧業(ヘオプ) | 7世紀 | 不明 | 60余歳 ナーランダ寺で没 |
| 高句麗の阿離耶跋摩 | 7世紀 | 不明 | 70余歳 ナーランダ寺で没 |
| 高句麗の玄遊(ヒョンユ) | 7世紀 | 南海路 | スリランカで没 |
| 新羅の玄挌(ヒュンカク) | 7世紀 | 不明 | 40歳 中インドで病没 |
| 新羅の慧輪(ヘユン) | 7世紀 | 不明 | 西域トカラで 消息不明 |
| 新羅の慧超(ヘチョ) | 704~787 | 南海路 帰路 中央アジア | 83歳中国で没 |
