アッシジの聖フランチェスコ Francesco d’Assisi

アッシジの駅の構内に教会がある

イタリアのローマから約182km列車で約2時間のウンブリア地方にアッシジという町がある。映画「ブラザーサン・シスタームーン」の主人公、聖フランチェスコ(1181~1226)が生まれ活躍した町である。

ミッキーロークのフランチェスコもよかったが、やっぱり私には「ブラザーサン・シスタームーン」がベストである。ドノバンが歌う主題歌がCDになっていないのは、なぜか不思議だった。この主題歌の演奏のCDは教会の売店で購入した。ドノバンのこの歌は教会でも歌われている。もはや聖歌である

地震で崩れる前のチマブエのフレスコ画

1997年9月26日にアッシジで地震があり、ジョットがフレスコ画を描いた大聖堂の円天井が崩落、修道士ら4人が死亡した。私たちは地震の一週間前にアッシジを訪れており、シエナに住む私達の友人はその前日にアッシジを訪れている。あとから地震を聞いて、お互いに大変驚いた事がある。

さて現代の環境危機をもたらした原因の一つに、キリスト教の人間中心の自然観に問題がある事を指摘する人がいる。

生涯を描いたジョットのフレスコ画

昔、ケルトは聖なる森を大切にする樹木信仰を持っていてヨーロッパは深い森におおわれていた。キリスト教徒により聖なる森は切り倒され、森の女神は魔女に貶められた。森は消えケルトの聖なる地の跡にはキリスト教会が建立された。

そこには自然を思うがままに支配して、目的のために自然を利用尽くし、自然の所有者となる人間中心の傲慢なキリスト教の神学解釈があったというのである。

アッシジの石畳

聖書で問題になっているのが創世記の「海の魚、空の鳥、地の上を這うものを従わせよ。」の文面である。環境問題でやり玉にあげられるのが人間中心の根拠となる「従わせよ。」です。この「従わせよ。」原語のsubdueは「1、力によって優位にたつ。2、脅しや説得などによって屈服させ、支配下に置く。3、押さえ圧迫する。」であるから「従わせよ。」の聖書の言葉はユダヤ教とキリスト教徒に人間中心の自然支配の根深い根拠をもたらすことになる。

1972年にローマクラブの「成長の限界」がだされてから、エコロジーの視点から、読み取ろうとするエコロジー神学が盛んになってきた。
創世記の続きでは、人間が傲慢になったので神は洪水で地上のすべてを滅ぼす。生き残ったノアは神と契約を結ぶのだが、その時には「従わせよ。」の言葉はない。そこでエコロジカルな神学解釈をしたドイツのリートケという現代のキリスト者によると、自然を人間が支配するのではなくて、管理者として神に委託されたと解釈できるという。

聖クララの教会

さて13世紀、最も保守的な中世のキリスト教世界でフランチェスコは産まれた。フランチェスコを歴史学者のホワイトは「西洋史上最大の精神的、霊的革命」といい、「エコロジストの本尊」と呼ぶことを提唱した。

エコロジーの年表は「兄弟なる太陽、姉妹なる月」と霊的平等を説いた聖フランチェスコから始まっている。
1979年フランチェスコはヨハネパウロ2世によって環境保護の人々の守護者に選ばれている。

ちなみに彼の弟子パドバのアントニーウスはなくしものをした人の守護者である。

聖クララが昇天した場所

フランチェスコは太陽、月、風、雲、の自然現象まで万物すべて神の兄弟として敬った。

あるとき火のそばに座った時にフランチェスコの服に火が燃え移った。熱さを感じながらも消そうとしなかった。仲間が消そうと走りよると、「いけません。兄弟よ、火の邪魔をしては行けません。」と言って燃えるままにさせたという。それでも言葉に逆らって、院長が火を消して収まったという。

フランチェスコは木をきる時、丸ごと切り落とすのではなくて、木がいきて行けるようにある部分は残すように命じたり、すべての土地を野菜のために耕すのではなく、いくらか野の草花のために残しておくようにさせたりもした。

フランチェスコがこよなく愛した場所 ポルツィウンコラ

フランチェスコはおおかみ、キジ、野うさぎ、ひばり、タカ、コオロギ、魚、羊からも慕われたという。

金持ちの放蕩息子だったフランチェスコは無一物になって乞食をして、カルチェリの森の洞窟でくらした。写真はその洞窟の一つ。これは禅坊主と同じようなものだ。

祈りとは病気が直りたい、幸せが欲しいと言葉を並べて神にお願いすることではなくて、フランチェスコの祈りは今、生きている喜びを神に感謝することだった。そして内側の無垢に気づくことをフランチェスコの生き方は示しているように思える。

フランチェスコが啓示を受けた十字架

アッシジの町はスバジオ山の中腹に造られているが、スバジオ山は昔、鬱蒼とした森におおわれていた。フランチェスコが祈った様に特別な霊性を帯びた場所は古来から不思議な体験が起きることで知られている。

アメリカ、カルフォルニア州の自然保護運動家のシュワルツシルドはフランチェスコが小鳥達に説教をしたといわれるスバジオ山で異生物間コミュニュケーションを体験している。

シュワルツシルドはスバジオ山の斜面を登っている時に散弾銃の音がして、大変驚いたいう。
スバジオ山は狩りが合法だったので散弾銃の色のついた薬莢がそこかしこに散らかっていた。疲れて山頂に寝袋を広げたが、気が重く、なかなか寝付く事ができなかった。横たわっていると、近くの草むらからナイチンゲールではないかと思える美しい鳴き声が、羽ばたきの音とともに聞こえて来た。夜なので姿を見る事はできなかったがその声は深く心に響いた。

カルチェリの森

「山で一日中鳴き続ける鳥に会うのは初めてだ。その声はまるでアッシジの鳥の代弁者として私に助けを求めているように思えた。やがて鳥は飛び去った。私は深く感動した。鳥たちを救う為に、誰も何もしていない事をしって、それを自分がすべきだ言う事を知った。」

シュワルツシルドはアッシジの鳥たちを救う為に、世界中のマスコミや組織、友人に手紙を書き、キャンペーンを開始した。
その努力のお陰で女性を始めとして世界中から抗議の声がひろがり、スバジオ山の自然保護法が制定され、一切の狩りが禁止された。

スバジオ山カルチェリの森

この成功を受けて、シュワルツシルドは環境問題を支援する為の自然環境団体、アッシジ自然会議を設立した。

フランチェスコが天に召される前夜に遺言のように話した言葉

「もし、わたしが皇帝にお話できるとしたら、神の愛のために、またわたしのたっての願いのために、どんな人もわたしたちの姉妹であるひばりを捕獲したり害をしたりしてはならないという法令を定めてくださるよう懇願します。

同じように、市長や町や村の領主たちも毎年のご降誕の祝日には、そのような祭日にふさわしく住民に麦粒か何かを市や町の外の道ばたにまかせ、とくにわたしたちの姉妹であるひばりや他の鳥たちに、何か食べるものを与えてほしいと思います。

カルチェリの森 礼拝堂

また、聖母があの夜、牛とろばの間にある飼葉おけにお置きになった神のおん子を敬うために、ご降誕の夜は、兄弟である牛とろばに飼葉をたくさんやるはずです。

さらに、主のご降誕の祝宴を開く時は、富んでいる人は貧しい人に、おなか一杯食べられるだけのものが与えられるように配慮しなければならないのです。」  フランシスコと共にいたわたしたちは 27 ひばりたち 「あかし書房」より

1986年11月4日に京都栂尾高山寺とアッシジの聖フランチェスコ教会は兄弟教会の縁組を結んだ。高山寺は明恵上人が再興したことで知られる古刹だ。

聖者が籠って祈った洞窟

生駒の紫陽花むらの法主さんは、夜眠っていると木の悲鳴が聞こえて胸騒ぎした。外に出てみると学生がキャンプしている一本の木が呼んでいた。そこに行ってみると、巨大な釘が打ち込まれたところでキャンパーがロープを結ぼうとしている。法主さんは頭をさげて、これでは木が可哀相だから、枝にロープを巻き付けるやり方をしてくれないかとたのみ、学生たちも了承して、それから眠れたと言う。真木悠介「気流のなる音」

環境が汚染されることには誰もが反対だ。にも関わらず汚染が進むのは環境の保全よりも優先される物事の方があまりにも多いからだ。われわれの内面にひそむ価値観の根本的な転換が必要だ。

アッシジの夕暮れ

フランチェスコも法主さんの行為も「学問のエコロジー」でも「思想としてのエコロジー」でも「運動としてのエコロジー」でもない。

それは自然を愛し、自分を愛する自然な行為だからだ。彼らの自分は私たちの自己感覚とは違う。自分自身の境界を超えて、他の動植物を含むいのちのネットワークまで広がっている。

聖なる場所とは私たちの身体が大地であり、血液が河や海で、肺が森林で地球の命そのものである事を思い出させてくれる場所のことである。

わたしたちは地球の一部であり
地球はわたしたちの一部である。
すべてのものはひとつの家族をむすぶ
血液のようにむすびついている。
人がいのちの網の目を織ったのではない。
人はその一本の糸にすぎない。
人はその網の目たいしてすることはすべて、
自分自身に対してすることなのである。

(シアトル酋長の言葉 星川淳訳)