ラマナ・マハリシ Ramana Maharshi
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私は誰か?

私たちは普通、肉体の感覚や行動と同一化しているために、肉体を自分と思っている。ラマナ・マハリシはこの「私は肉体である。」という感覚が問題だという。あらゆる肉体の感覚、物事を考える思考も私ではない。では「私は誰か?」という問いにマハリシは「これではない」「これではない」と取り除いって最後に残る自覚、それが私だという。そして「私は誰か?」と問う以外に自己を探求する方法はないと断言する。ラマナ・マハリシにはサイババの様な超能力現象を見せる事もなく、ヨーガや呼吸法でもなく。難しい哲学や教典もなく。弟子をとるイニシエーションもなかった。「私は誰か?」ただこの簡単な問いと沈黙の眼差しだけで大勢の探求者達を覚醒に導いたといわれる。最近他界したプンジャジもその一人だった。
マハリシの「自己」や「真我」と訳されるている『セルフ』はアートマンを指している。ウパニシャッド哲学では小宇宙である人間の本質、真我、アートマンと大宇宙の本質であるヴラフマンは同一(梵我一如)であるとされる。このような不二一元論をアドヴァイタという。自己実現にいたる道には神への信愛(バクティ)、神への洞察や理解といった智性(ジュニャーニ)の道があるがラマナ・マハリシは自分はジュニャーニンだと認めていた。
『この我は、ただ「非也、非也(あらず、あらず)」と説かれるのみ。』
ブリハット・アーランヤカ・ウパニシャッドより
ラマナ・マハリシの言葉
弟子 どうすれば自己実現できるのでしょうか?
マハリシ
実現といぅのは、新しく獲得される何かではない。それはすでにそこにある。必要なことのすべては「私は実現していない」という想いを追い払うことである。
静かさあるいは平和が実現である。自己が存在しないときは、一瞬たりともない。疑いや非実現という想いがあるかぎりは、それらの想いを追い払う試みがなされるべきである。それらの想いは、自己と非自己を同一視することによって起こってくる。非自己が消えれば、その後にはただ自己だけが残される。場所が必要ならば、狭くなくすればそれでじゅうぶんである。よそから場所を持ってくる必要はない。
弟子 どうやって自己に到達できましょうか?
マハリシ
自己に到るということはない。自己がもし到られるべきものならば、それは今ここにはなく、やがて得られる何かを意味するだろう。新しく得られるものはまた、失われるものでもある。それは永遠のものではない。永遠でないものに努力する価値はない。それゆえに、自己は到るものではないと言うのである。あなたは、自己である。あなたは、すでにそれである。
事実は、あなたは自分の至福に満ちた状態について無知だということだ。無知は次から次へと続き、至福である自己にヴェールをかける。努力はただ、この悪い知識である無知のヴェールをはぐことに向けられればよい。悪い知識とは、自己と身体や心などを誤って同一視することである。この偽りの同一は去らねばならぬ。そうすればただ自己のみがそこに残る。
それゆえ、実現はすべての人おのおののものである。実現は、それを願う人々の問に差別をつけない。あなたが実現できるかという狭いそのもの、自分は実現していないという考えそのものが障害である。このような障害物からも自由になりなさい。
弟子 サマーディ(三昧)は何かの役に立つものでしょうか? また、サマーディにあっては何かの想いが存在するのでしょうか?
マハリシ
サマーディだけが真理を示すことができる。想いは、実在にヴェールを投げかける。それゆえに、サマーディ以外の状態にあっては、実在が実現されることはない。
サマーディにあっては「私は在る」という感覚だけがあり、想いはない。「私は在る」
という経験は、静かであることことである。
弟子 私がここで得るサマーディあるいは静かさの経験を、どうすればくりかえすことができましょうか?
マハリシ
あなたの今の経験は、あなたが自分自身の内に見いだした雰囲気の影響によるものである。あなたほその雰囲気の外で同じことを経験できるかね。経験は突発性のものである。それが永遠になるまで実修が必要である。
弟子 サマーディを実現すると、シッディ(超能力)をも得るのではないでしょうか?
マハリシ
シッディを見せるためにほ、それを認めてくれる他者がいなければならない。つまり、シッディを見せびらかすような人の内には、 ジュニャーナはない。それゆえ、シッディは考える価値のないものである。ジュニャーナのみが目指されるべきであり、得られるべきである。
弟子 私が実現すれば他者の助けになるでしょうか?
マハリシ
そうだ。そしてそれが、あなたが他者に対してできる最上のものである。
大いなる真理を見いだした人々は、自己の静かな深みにあってそのようにしてきた。実現した人々は、ただ自己のみを見るからである。それはちょうど金細工師が、金でできたさまざまな宝の値踏みをしながら、ただ金だけを見ているのと同じである。あなたが自分を身体と同一視するとき、名前と形がそこにある。けれどもあなたが、その身体意識を越えるとき虹は「その他のもの」もまた消え去る。実現は、世界を彼自身と異なったものとしては見ない。
弟子 聖者が他の人々と交わるのは、よいことではないのではないでしょうか?
マハリシ
交わる「他者」というものはない。自己は唯一の実在である。
弟子 苦しみに満ちた世界を救おうとしてはいけないのでしょうか?
マハリシ
あなたを創造した力が、同じように世界を創り出してきたのだ。その力があなたの世話をすることができるならば、同じように世界の世話をすることができるだろう。神が世界を創造なさったのであれば、その世話をなさるのは神の仕事であり、あなたの仕事でほない。
弟子 愛国者であることは、私たちの務めではないでしょうか?
マハリシ
あなたの務めは、在ることであり、これであったりあれであったりするこではない。その方法は「静かであること」に尽きる。
では静寂とは何を意味するのだろうか。それは「あなた自身を打ち壊す」ことを意妹する。なぜなら、すべての名前と形が困難の原因だからである。「私ー私」が自己である。「私はこれこれである」というのがエゴである。「私」が「私」のみを保ちつづけるとき、それは自己である。それが突然に脇道にそれて「私はこれであり、あれであり、これこれである」と言うとき、それはエゴである。
弟子 それでは神とは誰でしょうか?
マハリシ
自己が神である。「私は在る。」が神である。神がもし自己以外のものであるなら、彼は自己のない神であるにちがいなく、それは不条理である。
自己を実現するために必要なことのすべては、静かに在ることである。それ以上簡単なことがあるだろうか。アートマ・ヴィディヤ(自己探究)はだから、最も簡単な道である。
裸の聖者

ラマナ・マハリシの写真をみるとほとんどが褌(ふんどし)一本で裸同然である。ラマナ・マハリシが住んでいた南インドのタミルナドウは年間を通して暖かいので褌だけでも暮らしていけたのだろう。誕生日などの特別な日には帰依者から沢山の褌が寄進されたという。彼の慈悲から一日に四回も褌を取り替えたこともあったという。高価な布も持ってくる者もあったが、ある日ラマナ・マハリシは帰依者にこういっている。
「私は何も欲しくはないんだよ。見てごらん、私がどれほどたくさん持っていることか。たくさんの布をもっていればいいのは洗濯屋だけだ。」
私たちはたくさんの衣服や物を持っているが内面が満たされているとは言い難い。いや満たされていないからこそ必要以上に物を集めてしまうのだろう。
少年時代
ラマナ・マハリシは1879年12月30日午前1時 南インドのティルチュリ(Tirupati)で生まれている。その日の午前1時はシヴァ神の聖なる祭りの日で路地を練り歩く花輪で飾られたシヴァ神の像が丁度寺院に戻ったときに誕生したといわれる。
父のスンダラム・アイヤールは翌年の1880年に弁護士を開業をして家は依頼人や訪問客で賑わったようだ。ラマナ・マハリシの幼名をヴェンタカラーマンといった。
12歳の時父が亡くなり、チェンナイ(マドラス)の町近くの叔父の所に引き取られた。ラマナ・マハリシは少年時代に異常なまで深い眠りに入る事があったという。
「少年たちは、私に恨みを抱いても私が目の覚めている時にはかかってくることはなかった。その代わり、眠っている間に私を連れだして、殴ったり、顔に墨を塗りまくったりしてから、私を戻した。翌日彼らがそのことを吹聴するまでまるっきり何も知らないでいた。」
またこんなことを寺院に行ったときに友達にいっている。
「神はすべてを平等に創造されたのだから、創造物の間に違いなど存在しない。神は一つである。神々の顔や形の違いは人間によって創作されたものだ。」
彼は子供の頃からアルナーチャラの名を聞くと不思議な興奮を感じたという。
そして1896年の7月の中句 17歳の時に突然死の恐怖を感じる。この人生を変えてしまう死の体験が彼を生涯に渡って住む事になる「聖なる丘 アルナーチャラ」に導く事になる。
プンジャジ「真理のみ」
訳者前書き
シュリ H.W L.プンジャ、1910年、現在のパキスタンにあたるパンジヤブ地方に生まれ、彼が8オの時、真理の直接体験をし、1944年彼のグル、シュリラマナマハリシに出会う。その後しばらくして彼のマスターの現存の前で真我を実現する。所帯持ちとしてそのまま仕事に従事し、1966年に引退するまで大家族を養い続けた。ガンジス川のほとりでの生活や世界旅行の後でインドのラクノーに定住する。
彼は彼を愛する人々から“パパジ”(ヒンディー語で父の尊称)と呼ばれ、インドは元より世界中からやってきた真理の探究者に測り知れない愛と知恵を分かち与えた。
彼の死1997年9月6日、以前も以後も彼の現存とダイナミックな伝達力で、数え切れない人々が自分の本性に目先めていった。
“真理のみ”は1990年~1996年にかけてラクノーでおこつたサットサンでのパパジと探求者との驚異的な対話を集録したもので、彼の教えのエッセンスが凝縮されています。その単純明快さ故に困難な彼の教えは究極の無に定住した人の絶対的権威をもって湧き出る知恵の言葉であり、それは禅マスターの一喝にも匹敵します。
真理は言葉で言い表すことはできないものとしてかれはそのエッセンスを愛を通して、沈熱を通して一人一人の探求者の頭にではなく、ハートの中に植え付けていきました。このエッセンスは仏陀の“色即是空、空即是色”、ヒンディーズムの“アドヴァイタ”、禅の“無”の境地と、全く何の変わりもないものなのです。頭を空っぽにして静かにしているだけで、直接ハートにその理解がおこるのです。“それ”が、“それ自身で”、“それ自身”の、姿を現すのです。苦しみ、生と死の輪廻から解放され愛と平和と至福の中で、初めてあなたは生きることができるのです。
最も画期的なパパジの教えは、自分自身を知るのに、修行、瞑想は全く必要ないと断言して妥協をゆるさないアプローチなのです。それが現にサットサンでどの様に実現していったかはまったく驚異という他はありません。悟りは世を捨て修行の道で達成されると言う槻念を完全に打ち破ってしまったからです。
真理は今ここに‥ パワフル サットグルパパジは今もライオンのように吠え続けています。
この本の中でたとえ一人でもその叫び声を聞いていただけたらこの本の役目は果たしたと同じです。そして真理への欲求がわき上がってくるのなら後はそのライオンがあなたのめんどうを見てくれるでしよう。私はそれを約束して止みません。だから熱望しなさい!
熱望することなしに真理を知ることはできないのですから...。
1998年11月20日
訳者